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田畑昇人のFXブログ

【書評】思考の整理学

書評   

思考の整理学

思考の整理学 (ちくま文庫)
外山 滋比古
筑摩書房
売り上げランキング: 449

東大と京大で一番売れていた本として、有名な「思考の整理学」。

内容は少し古いですが、今でも読まれているということは、普遍的な内容が詰まっているということでしょう。

特に教育に関しての考察が素晴らしい。

以下に、印象に残ったことをまとめておきます。

 

印象に残ったこと

・グライダー

新しいことをするのだったら、学校がいちばん。
年齢、性別に関係なくそう考える。
学ぶには、まず教えてくれる人が必要だ。
これまでみんなそう思ってきた。
学校は教える人と本を用意して待っている。
そこへ行くのが正統的だ、となるのである。

 

たしかに、学校教育を受けた人たちは社会で求める知識をある程度身につけている。
世の中に知識を必要とする職業が多くなるにつれて、学校が重視されるようになるのは当然であろう。

 

ところで、学校の生徒は、先生と教科書にひっぱられて勉強をする。
自学自習ということばこそあるけれども、独力で知識を得るのではない。
いわばグライダーのようなものだ。自力では飛び上がることはできない。

 

グライダーと飛行機は遠くからみると、似ている。
空を飛ぶのも同じで、グライダーが音もなく滑空しているさまは、飛行機よりもむしろ美しいくらいだ。
ただ、悲しいかな、自力で飛ぶことができない。

 

学校はグライダー人間の訓練所である。
飛行機人間はつくらない。
グライダーの練習に、エンジンのついた飛行機などがまじっていては迷惑する。
危険だ。学校では、ひっぱられるままに、どこへでもついていく従順さが尊重される。
勝手に飛び上がったりするのは規律違反。
たちまちチェックされる。
やがてそれぞれにグライダーらしくなって卒業する。

 

優等生はグライダーとして優秀なのである。
飛べそうではないが、ひとつ飛んでみろ、などと言われても困る。
指導するものがあってのグライダーである。

 

人間には、グライダー能力と飛行機能力とがある。
受動的に知識を得るのが前者、自分でものごとを発明、発見するのが後者である。

両者は一人の人間の中に同居している。
グライダー能力をまったく欠いていては、基本的知識すら習得できない。
何も知らないで、独力で飛ぼうとすれば、どんな事故になるか分からない。

 

学校はグライダー人間をつくるには適しているが、飛行機人間を育てる努力はほんの少ししかしていない。
学校教育が整備されてきたということは、ますますグライダー人間を増やす結果になった。
お互いに似たようなグライダー人間になると、グライダーの欠点を忘れてしまう。

 

指導者がいて、目標がはっきりしているところではグライダー能力が高く評価されるけれども、新しい文化の創造には飛行機能力が不可欠である。
それを学校教育はむしろ抑圧してきた。
グライダーにエンジンを搭載するにはどうしたらいいのか。
学校も社会もそれを考える必要がある。

 

・不幸な逆説

学校がグライダー訓練所のようになってしまうのも、やむを得ないことかもしれない。
小学校へ入る子供は、まだ勉強がよく分かっていない。
ものを知りたい気持ちはあるけれども、どうしたら知識が得られるか見当もつかない。

 

とにかく、先生に言われるように勉強しなさい、となる。
ひっぱるものがあるから、動き出す。
自分で動くのではない。受け身だ。

 

本来の学習がそうであってはいけないのは分かりきっているけれども、制度としての学校ができてしまうと、各人の自発的な学習意欲を待っているわけにはいかない。
就学年齢が決まっている。
その時一斉に学習への準備ができているはずはないけれども、ひっぱるのには一斉でないと不便だ。
ひっぱられる方は、何故ひっぱられているのかよく分からないままひっぱられる。

 

このはじめの習慣は学校にいる間中ずっとついてまわる。
強化されこそすれ、弱まる事はない。
そればかりか、社会へ出てからも勉強とは教える人がいて、読む本があるもの、と思い込んでいる。

 

学校の優等生が、必ずしも社会で成功するとは限らないのも、グライダー能力に優れていても、本当の飛翔ができるのではない証拠になる。
学校はどうしても教師の言う事をよく聞くグライダーに興味をもつ。
勝手な方を向いたり、ひっぱられても動こうとしないのは欠陥ありと決めつける。

 

教育は学校で始まったのではない。
いわゆる学校のない時代でも教育は行われていた。
ただ、グライダー教育ではいけないのは早く気がついていたらしい。
教育を受けようとする側の心構えも違った。
なんとしても学問をしたいという積極性がなくては話にならない。
意欲のないものまでも教えるほど世の中が教育に関心をもっていなかったからである。

 

そういう熱心な学習者を迎えた教育機関、昔の塾や道場はどうしたか。
入門しても、すぐ教えるようなことはしない。
むしろ、教えるのを拒む。
剣の修行をしようと思っている若者に、毎日薪を割ったり、水をくませたり、時には子守りまでさせる。

 

なぜ教えてくれないのか、当然不満を抱く。
これが実は学習意欲を高める役をする。
そのことをかつての教育者は心得ていた。
あえて教え惜しみをする。

 

じらせておいてから、やっと教える。
といって、すぐにすべてを教え込むのではない。
本当のところはなかなか教えない。
いかにも陰湿のようだが、結局それが教わる側のためになる。それを経験で知っていた。

 

頭だけで学ぶのではない。体で覚える。
しかし、ことばではなかなか教えてもらえない。
名人の師匠はその道の奥義をきわめているけれど、はじめからそれを教えるようではその奥義は崩れてしまう。
秘術は秘す。いくら愛弟子にでも隠そうとする。
弟子の方では教えてもらう事は諦め、なんとか師匠のもてるものを盗み取ろうとする。
ここが昔の教育の狙いである。

 

学ぼうとしている者に、惜しげもなく教えるのが決して賢明ではないことを知っていたのである。
免許皆伝はごく少数の限られた人にしかなされない。

 

師匠の教えようとしないものを奪い取ろうと心がけた門人は、いつの間にか、自分で新らしい知識、情報を習得する力を持つようになっている。
いつしかグライダーを卒業して、飛行機人間になって免許皆伝を受ける。
昔の人は、こうして受動的に流れやすい学習を積極的にすることに成功していた。

グライダーを飛行機に転換させる知恵である。

 

それに比べると、今の学校は教える側が積極的過ぎる。
親切でありすぎる。
何が何でも教えてしまおうとする。

それが見えているだけに、学習者は、ただじっとして口さえあけていれば、欲しいものを口へはこんでもらえるといった依存心を育てる。
学校が熱心になればなるほど、また、知識を与えるのに有能であればあるほど、学習者を受け身にする。
本当の教育には失敗するという皮肉なことになる。

 

そこで、詰め込み教育への反省が起こる。
グライダー訓練の弊害が注意されるようになったのである。
詰め込みがいけないのではない。
意欲をそぐ詰め込みが悪いのである。
勉強したい気持ちが強ければ、いくらでも知識を歓迎し、いくらでも詰め込んでもらいたいと願うであろう。
逆に拒否反応を示している学習者にとっては、ほんの少しのことでも、こんなに押し付けられてはたまらないと反発する。

 

今の学校教育では、グライダー能力はつけられても、飛行機能力をつけにくいことは既に繰り返し述べてきた。
それにも関わらず実際には、グライダーを飛行機と誤解する。
試験の答案にいい点をとると、それだけで飛翔力ありと早合点してしまう。
これがいかに多くの混乱を招いているかもしれない。

 

ギリシャ人が人類史上最も輝かしい文化の基礎を築き得たのも、彼らに優れた問題作成の力があり、何故を問うことができたからだと言われる。
飛行機能力が素晴らしかったのである。

 

文化が複雑になってくると、自由に飛び回ることが難しくなる。
学校がどんどんグライダーを社会に送り出すから、グライダーが溢れる。
飛行機はグライダーにとって迷惑な存在である。
創造性がやかましく言われだしたのは、これではいけないという反省が生まれつつあるのを物語っている証拠だろう。

 

・コンピューター

これまでの知的活動の中心は、記憶と再生にあった。
それではグライダー人間が多くなるのも当然である。

学校は、グライダー訓練所であるのを少しも恥じるところがない。
むしろ、それを誇りにしてきた。社会もそれを怪しむことをしなかった。

 

記憶は人間にしかできない。
大事な事を覚えておいて、必要な時に思い出し、引き出してくるというのは、ただ人間のみにできることである。
ずっとそう考えられてきた。
その能力を少しでも多く持っているのは、優秀な人間とされた。教育機関がそういう人間の育成に力を注ぐのは当然の責務である。

 

これまでは、これに対して深く考える必要がなかった。
疑問を投げかけるものがなかったからである。ところが、記憶と再生の人間的価値がゆらぎ始めた。

 

コンピューターという機械が出現したからである。
コンピューターがその名の示すように計算するだけなら、驚くこともない。
コンピューターは計算機の殻を脱皮すると、少しずつだが人間頭脳の働きに近づきだした。

 

そのうちで、すでに確立しているのが記憶と再生の機能である。
これまで人間にしかできないとばかり思われていたことを、コンピューターがどんどんいとも簡単に片付けてしまう。
人間なら何十人、何百人もかかるような仕事を一台でこなしてしまうのを目の当たり見せつけられて、人間ははじめのうちこそ舌を巻いて感嘆していられた。

 

やがて、感心ばかりもしていられなくなりだしたのである。
人間とは何なのか、という反省が少しずつ芽生えてきた。
我々は、これまで一生懸命に勉強して、コンピューターのようになることを目指していたのだろうか。
しかも、記憶、再生とも人間はとてもコンピューターに敵わない。
本物のコンピューターとして見れば欠陥があるが、人間コンピューターは電源はいらないし、どこへでも自分の足で移動できるという点で自らを慰めることもできるであろう。

 

学校はコンピューター人間を育ててきた。
しかしそれは機械に負けてしまうコンピューター人間である。
機械が人間を排除するのは歴史の必然である。

現代は新しい機械の挑戦を受けるという問題に直面しているのに、お互いそれほどの危機感を抱いていない。

 

人間は機械を発明して、これに労働を肩代わりさせてきた。
機械は召使いで、人間が思うように使いこなす。
そう考えることもできるけれど、逆からみると、人間は自分の作り出した機械に仕事を奪われる歴史を繰り返してきたとみることもできる。
ただ便利になったといって喜んではいられない。

 

これまでの歴史で最も顕著な事例は、産業革命である。
それまで人力で行われていた工場作業が、馬力をもった機械によってとって代わられた。
それによって、工場の主役は人間から機械に移った。
人間は機械を操作するに過ぎない。実際物を作るのは機械である。

 

機械に仕事を奪われた人間は、機械には手の出ない事務所の中に主要な働き場所を見つけて、サラリーマンが生まれた。
事務をできるのは人間だけである。
その事務が複雑になるにつれて、おびただしい事務員が必要になった。

 

産業革命は、機械が工場から大量の人間を追い出した変化であった。
人間らしい仕事を求めて、人々は事務所へ立てこもった。
ここへは機械は足を踏み入れることはできない。

 

コンピューターの登場で、この聖域はあえなく潰れようとしている。
機械が素晴らしい事務能力を持っている。
人間は何かというと不平を言うが、コンピューターは文句を言わない。
労働基準法に縛られることもないから、不眠不休も可能である。

 

機械と人間の競争は、新しい機械の出現によって“機械的”な性格をあらわにする人間の敗北に終わるのである。
コンピューターは、我々の頭がかなりコンピューター的であったことを思い知らせた。
しかも、人間の方がコンピューターよりも遥かに能力が劣っているときている。

 

これでは、社会的に自然淘汰の法則を受けないではいられない。
“機械的”人間は、コンピューターに席を明け渡さなくてはならなくなる。
産業革命を考えても、この予想はまずひっくり返ることはあるまい。

 

これまでの学校教育は、記憶と再生を中心とした知的訓練を行ってきた。
コンピューターがなかったからこそ、コンピューター的人間が社会で有用であった。
記憶と再生がほとんど教育の全てであるかのようになっているのをおかしいと言う人は稀であった。
コンピューターが普及している現代において、この教育観は根本から検討されなくてはならないはずである。

 

学校だけの問題ではない。思考とは何か。
“機械的”“人間的”概念の再規定など、重要な課題がいくらでもある。

いち早くコンピューターの普及が進んだアメリカで、創造性の開発がやかましく言われだしたのは偶然ではない。
人間が、真に人間らしくあるためには、機械の手のでないことができるようにならなくてはならない。
創造性こそ、その最も大きなものである。

 

しかし、これまでグライダー訓練所を専門にしてきた学校に、感嘆に飛行機をこしらえるようになるわけがない。
果たして創造性が教えられるものかどうかすら疑問である。

ただ、これからの人間は、機械やコンピューターのできない仕事をどれくらいよくできるかによって社会的有用性に違いが出てくることははっきりしている。
人間らしく生きていくことは、人間にしかできない、という点で優れて創造的、独創的である。

 

コンピューターが現れて、これからの人間はどう変化して行くであろうか。
それを洞察するのは人間でなくてはできない。
これこそまさに創造的思考である。

思考の整理学 (ちくま文庫)
外山 滋比古
筑摩書房
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